障害と向き合う挑戦者 「自分を知ることから、すべては始まる」つーはーさんが語る、人生の岐路での決断と新たな挑戦

「自分を知ることから、すべては始まる」つーはーさんが語る、人生の岐路での決断と新たな挑戦

つーはーさん

10歳の頃から「いい人になりたい」と考え始め、自分自身と向き合ってきたつーはーさん。大学ではサークル活動に打ち込み、27歳で外資系企業に転職し営業職として社内トップの成績を残しました。

そして35歳で事故により頸髄損傷となり、車椅子生活になります。

しかし、事故直後から冷静に情報を集め、これからの人生をどう生きるか、具体的な計画を立てていったといいます。

今回は、人生の大きな転換点を経験しながらも、常に現実を見つめ、前を向いて生きてきたつーはーさんにお話を伺いました。

1. つーはーさんってどんな人?

1-1.10歳で気づいた「変わりたい」という思い

【インタビュアー(ライター):赤石/インタビュイー:つーはーさん

赤石:子供の頃はどんな性格だったのでしょうか?

つーはーさん:口も立つし、性格が悪い人間でした。

小学校高学年で身長が170センチほどあって、運動能力も高く、頭も良かったんですが、それでも友達がいなかった。これって何でだろうと考えるようになったんです。

赤石:どのように変わろうと考えたのですか?

つーはーさん:10歳のときに「いい人ってどんな人なんだろう」と考え始めました。

相談する人もいなかったからこそ自分でじっくり考えることができ、「周りの目は気にしない」「人と違ってもいい」など、自分の理想とする人物像や考え方が決まりました。

赤石:変化を実感できたのはいつ頃からですか?

つーはーさん:10歳までに染みついたことは簡単には抜けないんです。理屈や理論より、瞬間的に出てくる感情が勝ってしまう。

でも、大学に入る頃にはようやく理想に近づいてきた感じがありました。

赤石:大学時代はどのような生活を送られていましたか?

つーはーさん:経済学部に通いながら、ブレイクダンスのサークルに所属していました。

そのサークルは大学内でもトップクラスの実力があって、私自身もそこで打ち込めるものを見つけられました。大学に入ってからは人間関係も充実していて、自分が求めている環境に近づいている実感がありましたね。

1-2.多様なキャリアを経て、営業マンに

赤石:大学卒業後のキャリアについて教えてください。

つーはーさん:最初は新卒でパチンコ店に就職しました。

同期40人の中で一番早く役職に上がったんですが、その翌日に退職を決意したんです。求めている環境に近づいている自分の可能性はもっと大きいという思い込みをしていたんですね。

赤石:その後、なぜ外資系企業への転職をされたのですか?

つーはーさん:27歳のとき、結婚も視野に入れ始めて、今後の人生をどうしていくか考えました。

自分の市場価値をある程度理解していたので、まずは派遣社員として入社。将来的に社員になれる制度があることを調べた上で、チャレンジしました。

赤石:外資系企業での仕事はどうでしたか?

つーはーさん:最初の半年は本当に厳しかったです。使い物にならなかったですね。

パソコンも触れない、敬語も話せない。毎朝ビルに入る前に「今日も行きます」と自分に言い聞かせないと入れないほどでした。

でも、営業に異動してから状況が一変しました。

人とのコミュニケーションを大切にしながら、2年目で部署内トップの年間売上を達成することができました。

赤石:営業の仕事をどのように捉えていましたか?

つーはーさん:営業って本質が人とコミュニケーションを取ることなんです。これまでの人生でどれだけ人と関わってきたか、その積み重ねが活きる仕事だと思います。

また、死ぬほど仕事をすることは普通だと思っていましたし、量と質が伴えば必ず結果は出ると信じて働きました。

1-3.人生の転換点となった事故

赤石:事故当時の状況を教えていただけますか?

つーはーさん:プールに飛び込んで底で頭を打ち首の骨が折れました。

浮き上がろうとした時に両手両足が動かない。結果、プールの底に沈んでいきました。

救急車の中で「これは首が折れてますね」と言われた時から、すでに次のことを考え始めていました。

赤石:事故直後からなぜ冷静に判断できたのでしょうか?

つーはーさん:その状況でも選択肢は「生きる」か「死ぬ」しかなく、「生きる」という選択肢を選んだのであれば、あとは全力で楽しみながら生きるだけです。特に悩んだり悲しんだりはしなかったですね。

スマートフォンを手に入れてからは、すぐに自分で情報を集め始めました。

先人たちの発信を見て、どれくらいの生活ができるのか、この身体での仕事は収入がどのくらい見込めるのか、具体的な生活設計を考えていきました。

今までの人生でも、目の前の現実をしっかり見て判断することを心がけてきたので、それが活きたのかもしれません。

ただ、35歳という年齢で良かったと思っています。

死ぬほど好きなこともして、会社でトップも取れて、役員にもなって、結婚して子供も2人いて、人生一周くらいはしていました。これが若ければ、解決できない欲望の部分で苦しんだと思いますね。


2.入院中にYouTubeで発信を始めた想い

イベントで人と話すつーはーさん

赤石:なぜYouTubeを始めようと思ったのですか?

つーはーさん:入院中はYouTubeで多くのことを学びました。でも、入院初期の状況について発信する人が少なかったんです。

一発目の首を負った瞬間からYouTubeをしようという人はあまりいません。そこに価値があると考えました。

赤石:実際に発信してみていかがですか?

つーはーさん:入院中の人からコメントやDMをよくもらえるようになり、発信を続ける意義を感じています。

数は多くないかもしれませんが、同じ境遇の方々の役に立てているのであれば、嬉しい限りです。

3.価値観の変遷と未来への思い

つーはーさん全身横向き

赤石:事故を経て、価値観に変化はありましたか?

つーはーさん:一番は儲かるかどうかと、二番は自分がやりたいことかどうか。これは健常者の時と同じで今でも変わりません。

ただ、以前はなかった「誰かのため」という価値観が生まれました。

赤石:これからどのような生き方を目指していきたいですか?

つーはーさん:関係のない世界を救うよりも、自分の周りにいる人を幸せにすることに興味を持っています。

例えば、健常者を雇用して、その人たちの希望に近い環境を準備したり給与を払ったりすることで、周りの人たちを幸せにしていく。

そういった形で、自分を含めた輪の中にいる人たちを大切にしていきたいと考えています。

4.当事者へのメッセージ

赤石:障害当事者に向けて、伝えたいことはありますか?

つーはーさん:まず、自分のことを良く知ることが重要だと思います。

自分が何に悲しんで、何に喜んで、何に不安を持っているのか。それを知っているだけで、自分の機嫌は自分で取れます。

お金の面でも同じです。月にいくら必要で、そのためにはどんな仕事がよくて、その仕事は自分にできるのか。できないのなら、その範囲でできることは何か。

こういう具体的な組み立てを考えることが大切です。

自分で考えて自分で決めたことこそが、10年後もその先も自分の中に残るはずです。

5.まとめ

取材を通じて印象的だったのは、つーはーさんの「自分を知る」という軸のぶれなさです。

10歳で始まった自己理解は、外資系企業での成功にも、そして事故後の人生の再構築にも大きく影響していました。

また、入院生活という困難な状況の中でも、YouTubeという新たな挑戦を始め、同じ境遇の人々への情報発信を続けている姿勢からは、常に前を向いて生きる強さを感じました。

「自分のことは自分でしか分からない」。この言葉には、35年の人生で積み重ねてきた経験と、そこから得た確信が込められているのではないでしょうか。

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