小学5年生で難病「神経繊維腫症Ⅱ型」と診断され、現在は車椅子ユーザーかつ難聴者として生きる田中かなさん。フリーランスライターとして活躍する傍ら、SNSで同じ境遇の人々へエールを送り続けています。
今回は、病気との向き合い方、社会復帰への道のり、そして新たなコミュニティ立ち上げへの想いについて伺いました。
目次
1. 田中かなさんってどんな人?
1-1. 小学5年生で日常が一変
【インタビュアー(ライター):赤石/インタビュイー:かなさん】
赤石:幼少期はどのような性格でしたか?
かなさん:幼少期は、活発な性格でした。運動するのも大好きで、兄と地元のソフトボールチームに入ったり、ヒップホップダンスを習ったりしていました。
赤石:小学5年生のときに病気がわかったとのことですが、その時の心境を教えてください。
かなさん:はじめは、縄跳びが引っかかりやすくなり、異変を感じました。病名の診断を受けた時、診察室で母が泣き崩れたのを今でも覚えています。
私はまだ幼かったので、病気のことはピンとこず、あまりわからなかったのですが、母が隣で医師に慰められながら自分を責めている姿を見て、「重い病気なんだな」と実感しました。
病気がわかってからは、学校の体育の授業や習っていたダンススクールで大人たちから「無理しなくて良いからね」と声をかけられるようになりました。
今でこそ私のことを気遣ってくれていた言葉だと分かりますが、当時は「周りの子と違う」という事実を突きつけられているようで、複雑な気持ちでした。
赤石:現在の症状とどんな病気か教えていただけますでしょうか?
かなさん:国が難病に指定している「神経繊維腫症Ⅱ型」という病気です。
遺伝子の一部に異常があり、通常、誰もが持っている”腫瘍を抑制する細胞”が上手く作れません。そのため、身体中の神経に腫瘍が多発してしまいます。
脊髄内や骨盤内など、多くの腫瘍がありますが、今は緊急度の高い脳内の腫瘍をメインに経過観察しています。
1-2. 母の行動力が支えた学生時代
赤石:病気はいつ周りに伝えられたのですか?
かなさん:小学5年生で病気が発覚してからは、母が周りの大人に病気のことを伝えてくれました。
中学に進学するときも、高校に進学する時も、私の病気や病状を資料にまとめて、日常の困り事や必要な配慮について共有してくれていたようです。
おかげで、学生生活は何不自由なく過ごせました。まだインターネットもそんなに発達していない時代でしたが、真面目な母の行動力が学生生活の支えになっていたことは言うまでもありません。反抗してばかりの不真面目な娘でしたが(笑)
赤石:学生時代は病気とどのように付き合っていったのでしょうか?
かなさん:学生のころは、反抗してばっかり居ました。
「周りと違う」自分がいやで、強く見せたかったのかもしれません。
まだ病気の症状は足の軽い脱力くらいだったのですが、あまり人にそのことは言わず、隠すように生きていた記憶があります。
2. 社会人として歩み始めた20代
2-1. 22歳から始まった聴力の低下と音楽への想い
赤石:難聴になったのはいつでしょうか?
かなさん:22歳(9年前)ぐらいから少しずつ聞こえにくくなりました。
完全に聴力を失ったのは、2年前(2023年)です。当時、音楽活動をしていたこともあり、聞こえなくなったことは自分の人生に大きなショックを与えました。
手話を覚えて新しいコミュニケーションやコミュニティを持てるようになり、今少しずつ前を向いています。それでもまだ「聞こえたらな」って思うことはありますね。
2-2. 車椅子生活へ移行した経緯
赤石:車椅子生活になった経緯を教えてください。
かなさん:身体中の神経に腫瘍ができる病気なのですが、腰の腫瘍で足の脱力が強くなり、聴神経の腫瘍で三半規管が障害されたので、徐々にふらつきがひどくなっていました。
転倒することも多くなったので、車椅子に乗ることを決めました。
赤石:車椅子生活で気づいたことや心境の変化はありましたか?
かなさん:もともと、足の脱力があったので、立っていた頃は少ししか歩けませんでした。
車椅子になって、距離的には長く移動できるようになり、そこは自分にとって良かったと思います。
ただ、いざ車椅子になってみると、坂道が多いことやエレベーターやトイレが少ないこと、あらゆるものが立っている人の高さに合わせてあるなど、社会にはたくさんバリアがあることを知りました。
これはみんなにも知ってほしい、そう思ったのが、発信を始めた理由でもあります。
3. 会社員時代からフリーランスへの転換
3-1. 障害者雇用での複雑な想い
赤石:障害者雇用で働かれていたとのことですが、難しさを感じることはありましたか?
かなさん:聞こえにくさをうまく伝えられず「言った」「聞いてない」のトラブルが多かったんです。
あとは、本当はもっと色々挑戦したい仕事もたくさんありましたが、「しんどいだろうからもう上がっていいよ」「内容はあとでまとめるから会議は参加しなくて大丈夫だよ」と気を使われてしまうことも多く、人の優しさが寂しく感じてしまうこともありました。
赤石:なぜフリーランスという選択肢を取られたのですか?
かなさん:大勢の中で働いていると、やっぱり「人との違い」が目立ってしまいました。
「周りに合わせないと」「普通じゃないと」と、仕事以外のところですごくしんどかったんです。
そこで、自分らしく働けるフリーランスに挑戦しました。
3-2. コロナ禍でのキャリア転換
赤石:ライターやSNS運用のお仕事を選んだきっかけはありますか?
かなさん:10年弱、社会人をしてきて自分の得意なこと、不得意なことも少しずつわかってきていたので、コロナをきっかけに仕事を辞め、障害のことを考えなくて良いフィールドで自分の得意を活かしたいと思いました。
文章を書くのは得意だったので、ライターの仕事を選びました。SNS関連のお仕事は、自分個人のインスタグラムが実績となってお仕事をいただけることが多いです。
赤石:フリーランスで働く難しさや楽しさがあれば教えてください。
かなさん:体調の波が激しいので、自分で働ける時間を選べるのは私にとってとても大きいです。
体調の良くない日に、満員電車に乗って通勤するのが本当に大変だったので、曜日や時間の縛りなしで働ける環境は、自分に合っていると感じますね。
ただ、休んだら休んだ分だけ報酬はなくなるので、元気な時は夜中や遊びの移動中も仕事をしています(笑)
4. SNS発信が開いた新たな世界
赤石:SNSでの発信活動を始めた経緯を教えてください。
かなさん:車椅子や難聴になり、元気だった頃には知らなかった世界を良い意味でも悪い意味でも知ることができました。その記録として、始めたのが最初です。
赤石:「良い意味でも悪い意味でも」とは具体的にどんなことでしょうか?
かなさん:良いと思うのは、人の優しさに触れる回数が格段に増えたことです。
元気だった頃は、知らない人の手を借りることなどなかったのですが、今は1人だと乗り越えられない壁にぶつかることも多くなったので、知らない人にも助けを求められる力が付きましたし、多くの人に支えられて生きているなぁと実感することも増えました。
逆に悪い意味では、やはり社会にある「障壁」の存在を知ったことです。
あらゆる物が車いすユーザーを想定されていない造りになっていること、多くのイベントで情報保障が為されていないこと。社会にはこんなにたくさんのバリアがあったんだなと思い知らされました。
赤石:SNSを通してかなさんが感じたことはありますか?
かなさん:こんなバリアがある、こんなことを言われたら悲しい、そんな発信をしていると、必ず叩かれます(笑)
まだまだ道半ばだなと感じますが、社会の認識がもっと変わったら嬉しいなと思うので、発信は辞めません。
赤石:SNSを通じて伝えたい想いはありますか?
かなさん:同じような境遇の人が、1人じゃないって思えるようなアカウント作りや、あまり障害者と接する機会のない人に、私たちはこんなことで困っているよ、ということが伝われば良いなという思いで発信しています。
5. 未来へ向けた新たな挑戦
赤石:今後の目標や目指していきたい姿があれば教えてください。
かなさん:同じ難聴の方の居場所を作るコミュニティを立ち上げようと計画中です。わたしは中途失聴ですごく孤独だったので、同じようにどうしたら良いかわからない人に安心できる場を提供できたら嬉しいなと思います。
また自身のSNSでの情報発信も、まだまだ続けていきたいです。私たちの世界を、もっと多くの人に届けられるようになったら嬉しいですね。
赤石:コミュニティ素敵ですね!「安心できる場」とは具体的に、どんな環境やコンテンツなのでしょうか?
かなさん:私は20代で聞こえなくなったのですが、聞こえなくなったことで周りのみんなの会話には入れなくなってしまいました。
かといって、手話ができるわけでもなかったので、手話がメインのろう者コミュニティにも入れなかった。
どこにも属せず、どう生きていけば良いかわからず、すごく孤独だったんですよね。
なので、同じような悩みを抱える人に、繋がりの場を提供したいと考えています。聞こえない世界を生きていく上で必要な情報をセミナー化したり、定期的に対面イベントを開催したいと考えています。
外で何か傷つくことに直面しても、「大丈夫、また頑張ろう」と前を向けるのは、同じ痛みを経験した仲間同士のつながりが大きいと思うんです。
6. 読者へのメッセージ
赤石:かなさんの今の原動力はなんですか?
かなさん:SNSを通じて、多くの人にエールをいただいています。
それが私の背中を押してくれるのはもちろんですし、SNSで繋がった、同じ境遇の仲間の存在も大きいです。
同じ病気の仲間、車いすユーザー仲間、難聴や手話仲間..。ここでできた多くの繋がりの存在が、私を前向きにさせてくれているなと感じます。
赤石:最後に挑戦したいけど一歩踏み出せない読者へメッセージをください。
かなさん:人生は、長いようで多分、短い。
毎日を「最後の日」だと思って、1日1日を大切にしてほしいです。挑戦するときは不安も大きいけど、きっとそれ以上に「挑戦した」って事実が大きな自信になると思います!
7. まとめ
田中かなさんのインタビューからは、病気や障害と向き合いながらも、常に前向きに歩み続ける強さを感じました。
小学5年生で難病と診断され、22歳から聴力低下が始まり、車椅子生活となり、会社員を経てフリーランスへ転身。そしてSNS発信を通じて新たなコミュニティ構築を目指す、かなさん。
特に印象的だったのは、「どこにも属せない孤独」を経験したからこそ生まれた、同じ境遇の人々のためのコミュニティ構想です。自分の痛みを知っているからこそ、他者の痛みに寄り添えるのかもしれません。
「人生は長いようで多分、短い」というかなさんの言葉は、日々を大切に生きることの重要性を教えてくれます。
病気や障害の有無に関わらず、誰もが自分らしく挑戦できる社会を目指すかなさんの活動に、今後も注目していきたいと思います。